ミソロンギの廃墟に立つギリシア

ウジェーヌ・ドラクロワ《ミソロンギの廃墟に立つギリシア》1826年
ミソロンギの廃墟に立つギリシアGreece on the Ruins of Missolonghi
1826年
油彩、カンヴァス、213 × 142 cm
ボルドー美術館(ボルドー)

この作品のデータ

作者ウジェーヌ・ドラクロワ同じ作家の作品 6点
制作年1826年
時代近代同じ時代の作品 43点
様式ロマン主義同じ様式の作品 17点
種別絵画
技法・素材油彩、カンヴァス
所蔵ボルドー美術館ボルドー
有名度★★★
何がすごいのか

この絵は1826年、ギリシャを支援する資金を集める展覧会のために、パリで初めて公開されました。ドラクロワはトルコ軍に落とされた町ミソロンギの惨状をそのまま描かず、瓦礫の上で両腕を広げる一人の女性にギリシャを託しました。この寓意の女性像は、4年後の『民衆を導く自由の女神』に影響を与えたとされています。

見どころ

涙に濡れた顔

ギリシャを表す女性は、スカーフのような白い頭飾りをつけ、涙に濡れた顔をしています。金の縁取りがある青いドレスは、ドラクロワが多くの作品でギリシャの象徴に使った衣装です。

旗を立てる兵士

右奥では、黄色いターバンを巻いた男が旗を地面に突き立てています。敵のトルコ兵かエジプト兵を表し、旗は勝った側の支配の印です。エジプトは攻囲戦の終盤に、トルコを支援する軍を送っていました。

瓦礫の下の腕

女性の足もとの瓦礫の下から、死者の腕がのぞいています。ドラクロワは『キオス島の虐殺』に比べて残虐な描写を大きく減らしましたが、この腕は見る人に虐殺と戦争の現実を思い出させます。

3万の軍に囲まれた町

ミソロンギはパトラ湾に面した町で、1821年のギリシャ蜂起のあと、トルコ軍に何度も奪還を狙われました。1822年と1823年の包囲に続き、1825年4月15日に三たび囲まれます。3万を超えるトルコ軍に対し、守備隊は4,000でした。ギリシャ側はほぼ1年持ちこたえます。

しかし繰り返される砲撃に疫病と飢えが重なり、最後は敗れました。陥落のとき、クリストス・カプサリスは逃げられなかった人々とともに火薬庫で自爆し、トルコ軍にも死傷者を出しています。残った人々は奴隷にされるか殺され、3,000もの首が壁に並べられたといわれます。

支援の展覧会からボルドーへ

ギリシャ独立戦争は、ヴィクトル・ユーゴーやシャトーブリアン、詩人バイロンなど、若い世代の作家や芸術家に支持されました。ドラクロワもその一人で、1824年のサロンには『キオス島の虐殺』を出しています。この絵の完成は、1826年6月中旬から8月中旬の間と考えられています。

パリのルブラン画廊で公開されたあと、1828年にロンドンのホブデイ画廊、1829年にパリのコルベール美術館でも展示されました。ただ、物語のわかりやすい絵を好んだ当時の観衆には、ドラクロワのロマン主義的な描き方はほとんど正当に評価されませんでした。

1852年にボルドー市がこの絵を買うと、ドラクロワは3月31日付で市長に礼状を送り、人生の最初の数年をこの町で過ごしたことに触れました。のちにオディロン・ルドンがこの絵を模写しており、その模写はオルセー美術館からボルドー美術館に寄託されています。

キオス島の虐殺の結末

この絵は、奴隷化とオスマン帝国からの独立という『キオス島の虐殺』の主題を土台にしています。2枚を一続きの物語と見ると、ミソロンギはキオス島の物語の結末にあたります。美術史家ダーシー・グリマルド・グリグスビーは、手前の女性を奴隷制、奥の兵士を自由を表すものと解釈しています。

陰鬱なほど暗い色彩は、敗北の絶望をいっそう強めています。手前の女性と奥の兵士は対比するように置かれ、それぞれキリスト教とイスラム教を表すとも読まれています。4年後、ドラクロワは同じように一人の女性を主役にした『民衆を導く自由の女神』を描きました。

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よくある疑問

『ミソロンギの廃墟に立つギリシア』はどこにある?

フランス南西部の都市ボルドーにあるボルドー美術館が所蔵しています。1851年にボルドーの芸術の友の会に出品され、翌1852年2月にボルドー市が買い上げました。

何が描かれている?

1826年にトルコ軍の包囲で陥落したギリシャの町ミソロンギと、その後のギリシャの絶望を、寓意で表した絵です。瓦礫の上に半ばひざまずく女性がギリシャを、右奥で旗を立てる男が敵を表しています。女性の姿勢と表情は、疲れ果ててヨーロッパに助けを求めるギリシャとも解釈されています。

モデルは誰?

ローラ嬢と呼ばれる女性です。ドラクロワは翌1827年の裸婦画『女とオーム』(リヨン美術館)でも、彼女をモデルにしています。

『民衆を導く自由の女神』とどう関係する?

1830年の『民衆を導く自由の女神』は、この絵の構図、寓意の人物像、政治的な意味から影響を受けたとされています。どちらも一人の女性像に国や理念を託した絵です。自由の女神はルーヴル美術館にあり、フランス共和国と自由の象徴になっています。

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ウジェーヌ・ドラクロワのほかの作品

《ダンテの小舟》 《キオス島の虐殺》 《墓場の少女》 《サルダナパールの死》 《民衆を導く自由の女神》

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