
この作品のデータ
| 作者 | 狩野芳崖 | 同じ作家の作品 2点 |
|---|---|---|
| 制作年 | 1887年(明治20年) | |
| 時代 | 日本・近代 | 同じ時代の作品 19点 |
| 様式 | — | |
| 種別 | 絵画 | |
| 技法・素材 | 紙本著色 | |
| 所蔵 | 東京藝術大学大学美術館東京 | 同じ所蔵の作品 5点 |
| 有名度 | ★★★ | |
| 展覧会 | 没後100年記念 ビゲロー 幻のコレクションと近代日本画の夜明け──日本美術に魅せられたボストン人──愛知県美術館(愛知県)2026年10月30日(金)〜12月13日(日) | これから |
不動明王の背後で燃える炎を、狩野芳崖は朱ではなく金泥のぼかしで描きました。弟子の高屋肖哲によれば、師が実際に見た火事を手本にしたもので、狩野派では前例のないことだったといいます。翌年の絶筆『悲母観音』へつながる、芳崖晩年の仏画です。
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見どころ
黒い肌と太い輪郭線
明王の顔と体は、黒みがかった色で塗られています。体を縁どる太い輪郭線の一部には、濃い墨の線の上に色の線が重ねられています。
金泥で描いた炎
明王の背後を包む光は、ふつうの不動明王像なら朱の炎で描く火炎光背です。芳崖はこれを金泥のぼかしで表し、炎が体から立ちのぼるように見せました。
頭上に迫る岩窟
明王がいる場所は、上から岩がおおいかぶさる洞窟です。上部の岩の先端をたどっていくと、視線が明王へ導かれる構成になっています。
奈良の調査旅行から生まれた明王
芳崖は1886年、奈良の古い寺の宝物を調べる旅に加わりました。このとき鉛筆で描きとめた写生が、巻物『奈良官遊地取』として残っています。海竜王寺で写した不動明王像が、1年後の本作のもとになりました。
伝統的な仏画の形を借りながら、芳崖は明王を洞窟の中に置き、炎を金泥で描くなど、新しい表現を試みています。紙は、にじみ止めの礬水(どうさ)を引いた中国の紙で、前年の『仁王捉鬼図』とよく似た紙質だと調査で確かめられています。
墨の線と色の線の実験
芳崖は最晩年の仏画で、墨の線と色の線を組み合わせる試みを続けました。本作では、明王と岩窟に太い墨の線を使い、その一部に色の線を重ねています。濃い墨の上に色をのせることで、色の鮮やかさを抑え、金泥の炎や彩色の面となじませたと考えられています。
この経験は翌年の絶筆『悲母観音』に引き継がれました。『悲母観音』では細い色の線が使われていて、本作の太い線とは役割が変わっています。美術評論家の河北倫明は、本作の色の線には面としての変化の意味まで含まれていると述べています。
よくある疑問
- 『不動明王』はどこにある?
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東京藝術大学大学美術館が所蔵しています。弟子の高屋肖哲は、前身の東京美術学校が所蔵していると書き残しています。1955年6月22日に国の重要文化財に指定されました。
- 何をもとに描いた?
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1886年に芳崖が加わった奈良の古社寺調査で、海竜王寺の不動明王像を写生しています。この写生と、高野山明王院の「赤不動」の姿勢をヒントにしたことが、研究者の細野正信らによって指摘されています。写生の巻物『奈良官遊地取』も東京藝術大学が所蔵しています。
- 背中の金色の光は何?
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不動明王の背後に描かれる火炎光背です。高屋肖哲は、芳崖がかつて目にした火事を参考にし、火の音が聞こえるように金泥で描き始めたと記しています。
- 『悲母観音』とはどうつながる?
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芳崖は『伏龍羅漢図』(1885年)、『仁王捉鬼図』(1886年)、本作(1887年)、『悲母観音』(1888年)と、仏教の主題を続けて描きました。本作で太い色の線を墨の線に重ねる試みをし、『悲母観音』では細い色の線に移っています。
