
「麗子坐像」は、岸田劉生が娘・麗子をモデルに繰り返し描いた「麗子像」のうちの一枚です。正式には「麗子坐像(人形持つ麗子坐像)」と呼ばれ、劉生は1918年以降、麗子をモデルにした作品を数多く手がけました。同じ題名の作品はほかにも複数存在します。
見どころ
1918年からの「麗子像」
岸田劉生は1914年に生まれた娘・麗子をモデルに、1918年以降多くの肖像画を残しました。水彩・油彩・木炭など技法を変えながら、短い間隔で麗子の姿を描き続けています。
セザンヌからデューラーへ
劉生の初期作品はポスト印象派、特にセザンヌの影響が強いものでしたが、その後ヨーロッパのルネサンスやバロックの巨匠、なかでもデューラーの影響が顕著な写実的な作風に移っていきました。麗子像の連作はこの時期の仕事にあたります。
草土社での発表
劉生は1915年に始まった美術展(第2回展以降は草土社展)に毎回出品しています。同じ1919年に描かれた油彩の「麗子坐像」(ポーラ美術館蔵)は第7回草土社展に出品されました。
セザンヌからデューラーへ
岸田劉生は1908年に白馬会葵橋洋画研究所で黒田清輝に師事し、1912年には高村光太郎や萬鉄五郎らとヒュウザン会を結成しました。初期の作品はセザンヌをはじめとするポスト印象派の影響が強いものでしたが、その後ヨーロッパのルネサンスやバロックの巨匠、特にデューラーの影響が顕著な写実的作風へと移っていきます。1914年に長女の麗子が生まれると、1918年以降は彼女をモデルにした「麗子像」を数多く手がけました。
鵠沼での最盛期
1917年、結核を疑われた劉生は神奈川県鵠沼で転地療養を始め、この時期が画業の最盛期となりました。麗子像を見た彫刻家の高田博厚が「あいつには一生かかってもかなわない」と語ったという逸話も伝わっています。劉生は草土社を結成した仲間たちと交流しながら制作を続けましたが、1929年、満洲旅行からの帰国直後に体調を崩し、38歳で死去しました。
よくある疑問
- 『麗子坐像』はどこにある?
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東京のアーティゾン美術館の所蔵です。1920年1月に水彩で紙に描かれた作品で、正式には「麗子坐像(人形持つ麗子坐像)」といいます。
- 同じ題名の作品はほかにもある?
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はい。麗子は劉生が繰り返し描いたモデルで、「麗子坐像」という題名だけでも複数存在します。例えば1919年8月に描かれた油彩の「麗子坐像」はポーラ美術館が所蔵しており、第7回草土社展に出品されました。
- 麗子とは誰?
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岸田劉生の長女です。1914年に生まれ、1918年以降、父の作品に繰り返しモデルとして登場しました。
- 岸田劉生とはどんな画家?
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大正から昭和初期に活動した洋画家です。白馬会研究所で黒田清輝に師事し、フュウザン会や草土社の結成にも関わりました。写実的な画風で知られ、1929年に38歳で病没しています。
基本データ
岸田劉生のほかの作品
出典・画像について
画像: Wikimedia Commons(Public domain)。元ファイル