
菱田春草が輪郭線を用いずに描いた『菊慈童』は、当時の世間から「朦朧体」と揶揄された実験的な技法の代表作の1つです。1898年に岡倉天心が東京美術学校長を追われ、春草たちが日本美術院を創設した2年後、無線描法への挑戦のさなかに描かれました。
見どころ
輪郭線を排した朦朧体
『菊慈童』は輪郭線を用いない無線描法で描かれた作品の1つです。この実験的な技法は、世間から「朦朧体」と揶揄されました。
日本美術院、最初期の作
1898年、岡倉天心が東京美術学校長を追われると、春草は横山大観・下村観山とともに学校を去り、在野の美術団体日本美術院の創設に参加しました。『菊慈童』はその2年後、1900年に描かれています。
絹に描かれた1幅の掛軸
絹地に描かれた高さ181cm、幅110.7cmの掛軸(1幅)です。1900年4月、日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会に出品されました。
岡倉天心門下の俊英
菱田春草は1874年、長野県飯田町に生まれました。1890年に東京美術学校へ入学し、横山大観・下村観山の1学年後輩として、狩野派の流れをくむ橋本雅邦に学びます。当時の美校は校長・岡倉天心の強い影響下にあり、春草もその薫陶を受けました。1895年に卒業した後は、帝国博物館の委嘱による古画模写事業に参加し、京都や奈良を巡っています。
朦朧体と評された挑戦
1898年、岡倉天心が反対派に追われるように東京美術学校長を辞任すると、春草は大観・観山とともに学校を去り、在野の美術団体である日本美術院の創設に参加しました。1900年前後から、春草と大観は従来の日本画に欠かせなかった輪郭線を廃した無線描法を試みます。この実験的な画法は世間の非難を呼び、「朦朧体」と揶揄されました。『菊慈童』は『秋景(渓山紅葉)』とともに、この朦朧体の典型的な作品とされています。
よくある疑問
- 『菊慈童』はどこにある?
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長野県の飯田市美術博物館が所蔵しています。
- 誰が描いた?
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明治期の日本画家菱田春草が1900年に描きました。春草は横山大観、下村観山とともに岡倉天心の門下として、日本画の革新に取り組んだ画家です。
- 「朦朧体」とは何?
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輪郭線を用いずに描く実験的な技法で、当時は世間から非難され、揶揄を込めてこう呼ばれました。『菊慈童』はこの技法の典型的な作品の1つとされています。
- 重要文化財に指定されている?
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指定されていません。春草の作品では『王昭君』『賢首菩薩』『落葉』などが重要文化財に指定されていますが、『菊慈童』は指定を受けていません。
基本データ
菱田春草のほかの作品
出典・画像について
画像: Wikimedia Commons(Public domain)。元ファイル