
縦257.8cmの大きな絹本一幅ですが、1897年の第3回日本絵画協会絵画共進会での成績は銅牌第7席にとどまりました。春草が世間を騒がせる実験的な無線描法「朦朧体」に踏み出すのは、この3年ほど後のことです。
見どころ
卒業から2年後の大作
春草は1895年に東京美術学校を卒業し、同年秋から翌年にかけて帝国博物館の委嘱で古画模写事業に参加し、京都や奈良を巡りました。この作品はその直後、1897年10月に手がけられています。
師・橋本雅邦の教え
東京美術学校で春草を指導したのは、狩野派の末裔である橋本雅邦でした。春草は横山大観、下村観山とともに、当時校長だった岡倉天心の強い影響下にありました。
「朦朧体」以前の作品
輪郭線を廃した無線描法「朦朧体」を春草や大観が試み始めるのは1900年前後からです。この作品はそれより前、東京美術学校で学んだ技法にもとづく時期に描かれています。
岡倉天心門下の日本画
菱田春草は長野県飯田町に生まれ、上京して狩野派の結城正明に学んだのち、1890年に東京美術学校へ入学しました。美校では横山大観、下村観山の1学年後輩にあたり、フェノロサの美学や岡倉天心の日本美術史の講義を基礎知識として学んでいます。1895年に21歳で卒業すると、帝国博物館の委嘱で大規模な古画模写事業に参加し、京都や奈良をめぐりました。
早すぎた死
1898年、岡倉天心は反対派に追われるように東京美術学校校長を辞任し、春草や大観、観山も学校を去って在野の美術団体、日本美術院の創設に参加しました。春草は1908年に東京へ戻ったのち、1911年に腎臓疾患のため37歳を前に世を去りました。横山大観は晩年まで「春草こそ本当の天才だ」と語っていたと伝えられています。
よくある疑問
- 『水鏡』はどこにある?
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東京藝術大学大学美術館が所蔵しています。
- この作品は「朦朧体」なの?
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いいえ、違います。「朦朧体」は春草や横山大観が1900年前後から試みた、輪郭線を廃した実験的な画法です。この作品は1897年の制作で、その実験より前の時期にあたります。
- 菱田春草はどんな画家?
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明治期の日本画家で、横山大観、下村観山とともに岡倉天心の門下として日本画の革新に尽力しました。1911年、腎臓病により満37歳を目前に早世しています。
- どんな賞を受けた作品?
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1897年の第3回日本絵画協会絵画共進会に出品され、銅牌第7席を受けました。
基本データ
菱田春草のほかの作品
出典・画像について
画像: Wikimedia Commons(Public domain)。元ファイル