
「グレーの洗濯場」は、浅井忠が1900年からのフランス留学中に描いた作品です。当時の洋画壇では、黒田清輝の外光派に対し、浅井の画風は「脂派」「ヤニ派」と揶揄される暗調で古典的なものでした。代表作の一つとして、作者のウィキペディア記事にも作品名が挙がっています。
見どころ
フランス留学中の作品
浅井は1900年からフランスへ西洋画のために留学し、1902年に帰国しました。グレー=シュル=ロワンの洗濯場(ラヴォアール)を主題にしたこの作品は、その留学中に手がけられたものです。
「脂派」と呼ばれた画風
当時の洋画界では、黒田清輝の外光派・紫派に対し、浅井の作風は「脂派」「ヤニ派」と揶揄される古典的・暗調のものとされ、両派の対立が新聞で取り沙汰されました。浅井自身はこれを岡倉天心による分断工作とみなしていたといいます。
帰国後、関西での後進育成
1902年の帰国後、浅井は東京美術学校の教授職を辞して関西に移住しました。1903年に聖護院洋画研究所を開き、安井曾太郎や梅原龍三郎ら多くの画家を育てています。
佐倉から東京、そしてフランスへ
浅井忠は江戸の佐倉藩中屋敷に生まれ、少年時代は佐倉で南画家の黒沼槐山に花鳥画を学びました。1873年に上京し、彰技堂で国沢新九郎に、続いて工部美術学校でアントニオ・フォンタネージに油絵を学んでいます。1889年には明治美術会の設立を主導し、1898年に東京美術学校の教授となりました。
黒田清輝との対立と関西移住
1900年からフランスに留学し、1902年に帰国すると東京美術学校の教授職を辞して関西に移住します。当時の洋画界では黒田清輝の外光派と浅井の古典的な画風がしばしば対立して語られましたが、浅井自身は個人的には黒田と良好な関係を保っていたとされています。京都では正岡子規に西洋画を教えたこともあり、夏目漱石の小説『三四郎』に登場する画家のモデルとも言われています。1907年、京都帝国大学病院で死去しました。
よくある疑問
- 『グレーの洗濯場』はどこにある?
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東京のアーティゾン美術館の所蔵です。
- グレーとはどこ?
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フランスのグレ=シュル=ロワン村を指します。浅井が1900年からの留学中に滞在した土地で、この作品は同地の洗濯場(ラヴォアール)を描いたものです。
- 浅井忠とはどんな画家?
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明治期の洋画家で教育者です。国沢新九郎やアントニオ・フォンタネージに学び、明治美術会の設立にも中心的に関わりました。帰国後は関西に移り、安井曾太郎、梅原龍三郎、石井柏亭ら多くの後進を育てています。
- なぜ「脂派」と呼ばれた?
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黒田清輝の明るい外光派の画風と対比して、浅井の古典的で暗い調子の画風がジャーナリズムで揶揄された呼び名です。浅井自身は黒田と個人的には良好な関係を保っていたとされています。
基本データ
出典・画像について
画像: Wikimedia Commons(Public domain)。元ファイル