
この作品のデータ
| 作者 | アメデオ・モディリアーニ | 同じ作家の作品 3点 |
|---|---|---|
| 制作年 | 1919年 | |
| 時代 | 印象派以後 | 同じ時代の作品 105点 |
| 様式 | エコール・ド・パリ | 同じ様式の作品 2点 |
| 種別 | 絵画 | |
| 所蔵 | — | |
| 有名度 | ★★★名画クイズで出題(全作品の解放) |
モディリアーニの代表作の大部分は1916年から1919年に集中して制作されており、この肖像もその時期にあたります。恋人ジャンヌ・エビュテルヌを描いた作品は複数残されており、同じ題名の絵が大原美術館にも所蔵されています。二人は貧困と病のなかで出会い、1920年にモディリアーニが急逝した翌日、身重だったジャンヌも後を追いました。
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見どころ
1916〜19年の肖像画
モディリアーニの代表作の大部分はこの時期に集中しており、ほとんどが油彩の肖像と裸婦です。顔と首を長く引き伸ばし、瞳を描き込まないという独特の表現が特徴とされ、自身の彫刻制作の影響が指摘されています。
出会いと結婚の誓約
1917年3月、モディリアーニはアカデミー・コラロッシでジャンヌ・エビュテルヌと知り合い同棲を始めました。1918年には長女が誕生し、1919年7月には結婚を誓約しています。
同じ題名の複数の肖像
モディリアーニはジャンヌをモデルに複数の肖像画を残しており、1918年制作とされる同題の作品は大原美術館が所蔵しています。制作年や所蔵先の異なる、それぞれ別の絵です。
モンパルナスでの出会い
モディリアーニは1906年にパリへ移住し、モンマルトルやモンパルナスの画家たちと交流を結びました。1915年頃から絵画に専念するようになり、画商ポール・ギヨームらの勧めもあって画業に力を入れます。1917年3月、アカデミー・コラロッシでジャンヌ・エビュテルヌと知り合い、同棲を始めました。
貧困のなかでの死
モディリアーニは生来肺結核を患っており、貧困のなか大量の飲酒や薬物依存で生活は荒廃していきました。1919年7月にジャンヌへ結婚を誓約したものの、1920年1月24日、結核性髄膜炎により35歳で死去します。ジャンヌもその翌日、妊娠8か月の身でアパルトマンから飛び降り自殺しました。遺族の反対もあり、二人の遺骸が同じ墓地に埋葬されたのは10年後のことです。
読んだらクイズ
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出会いと結婚の誓約1917年3月、モディリアーニはアカデミー・コラロッシでジャンヌ・エビュテルヌと知り合い同棲を始めました。1918年には長女が誕生し、1919年7月には結婚を誓約しています。
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よくある疑問
- 『ジャンヌ・エビュテルヌの肖像』はどこにある?
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現在の所蔵先はわかっていません。同じ題名の作品はほかにも複数あり、うち1918年制作とされる一点は倉敷の大原美術館が所蔵しています。
- ジャンヌ・エビュテルヌとは誰?
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モディリアーニの恋人です。1917年3月にアカデミー・コラロッシで知り合い同棲を始め、1918年に長女が生まれました。1919年7月に結婚を誓約しましたが、モディリアーニは同年半年後に病死し、ジャンヌはその翌日、妊娠8か月の身で後を追いました。
- なぜ瞳を描かない肖像が多い?
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モディリアーニの肖像画に共通する特徴で、顔と首を長く引き伸ばすプロポーションとあわせ、自身が没頭していた彫刻制作の影響が指摘されています。
- モディリアーニとはどんな画家?
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イタリア出身、主にパリで活動した画家・彫刻家です。モンパルナスで活躍し、エコール・ド・パリの画家の一人に数えられます。貧困と持病の結核に苦しみ、1920年に35歳で死去しました。
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出典・画像について
画像: Wikimedia Commons(Public domain)。元ファイル



