
結婚のわずか3日後、シーレは第一次世界大戦への召集を受けました。プラハで捕虜収容所の看守を務めながら制作を続け、1917年にウィーンへ転属されると本格的に制作を再開します。この絵はその年に描かれています。
見どころ
戦地から取り戻した制作
1915年の結婚3日後に召集されたシーレは、画家であることが認められて前線を免れ、プラハで捕虜収容所の看守を務めながらスケッチを続けました。1917年にウィーンへ転属し、暖めていた着想の制作に打ち込めるようになった年に、この絵は生まれています。
クリムトが支えた画業
貧しかったシーレは、工芸学校時代の先輩であるグスタフ・クリムトにモデル代を立て替えてもらうなど、手厚い援助を受けていました。クリムトの後押しで1908年には最初の個展を開いています。
翌年に訪れた成功
1918年、クリムトによる第49回ウィーン分離派展に50点以上の新作を一挙に公開すると、それまであまり知名度の高くなかったシーレの作品は一躍注目を集め、絵の価格も上昇しました。
従軍中も途切れなかった制作
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、24歳のシーレはオーストリア=ハンガリー帝国軍に召集されました。作品制作は一時中断を強いられましたが、軍は画家として活動していた彼を尊重し、前線勤務には就かせませんでした。プラハ駐屯部隊で捕虜収容所の看守を務めるかたわら、戦争の経験の中でスケッチや作品の構想を続けることができたといいます。
短い晩年と評価の高まり
1918年、富裕層の住むウィーン13区に新アトリエを構え、成功した画家としての一歩を踏み出したシーレでしたが、その年のうちにスペインかぜで妻とともに世を去りました。義姉アデーレ・ハルムスによれば、臨終の際シーレは「僕の絵は世界中の美術館で展示されるべきだ」と語ったとされています。
よくある疑問
- 『抱擁』はどこにある?
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オーストリアのオーストリア・ギャラリー(ベルヴェデーレ宮殿)が所蔵しています。
- エゴン・シーレはどんな画家?
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オーストリアの画家で、グスタフ・クリムトらのウィーン分離派や象徴派、表現主義に影響を受けながら独自の絵画を追求しました。意図的に捻じ曲げられたポーズの人物画を多数手がけ、見る者に直感的な衝撃を与える作風から表現主義の画家として論じられています。
- なぜ28歳で亡くなった?
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1918年、第一次世界大戦後に大流行したスペインかぜにより、妻エーディトが子を身ごもったまま10月28日に死去しました。シーレも同じ病に倒れ、3日後の10月31日に亡くなりました。
- 作品はどこで見られる?
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ウィーンのレオポルド美術館やチェスキー・クルムロフのシーレ記念美術館など、世界各地の美術館に収蔵されています。
基本データ
エゴン・シーレのほかの作品
出典・画像について
画像: Wikimedia Commons(Public domain)。元ファイル