
この作品のデータ
| 作者 | アメデオ・モディリアーニ | 同じ作家の作品 3点 |
|---|---|---|
| 制作年 | 1917年 | |
| 時代 | 印象派以後 | 同じ時代の作品 105点 |
| 様式 | エコール・ド・パリ | 同じ様式の作品 2点 |
| 種別 | 絵画 | |
| 技法・素材 | 油彩、カンヴァス | |
| 所蔵 | バーンズ・コレクションフィラデルフィア | |
| 有名度 | ★★★名画クイズで出題(全作品の解放) |
1917年12月、モディリアーニの生涯唯一の個展で裸婦画が展示されると、警察が踏み込んで撤去を迫る騒ぎになりました。同じ年に描かれたこの裸婦も、瞳を描き込まない長い体つきという、彫刻から持ち込んだ独特の造形で描かれています。
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見どころ
彫刻由来の長い体
モディリアーニは1909年から1915年頃まで彫刻に没頭し、資金不足で断念したのちも油彩に取り組みました。顔や首を長く伸ばし瞳を描き込まない特異な表現は、この彫刻の経験が影響したとみられています。
裸婦に集中した晩年
モディリアーニの代表作の大半は1916年から1919年に集中して制作されました。ほとんどが油彩の肖像と裸婦で、風景画はわずか4点、静物画は残していません。女性の造形美への関心が、裸体画の特徴として指摘されています。
個展を襲った警察
1917年12月3日、ベルト・ヴァイル画廊での生前唯一の個展に裸婦画を出展したところ、警察が踏み込み撤去を迫られました。該当作を外すことで個展自体は続けられたと伝えられています。
彫刻家から画家へ
モディリアーニは1909年にモンパルナスへ移り、ルーマニア出身の彫刻家コンスタンティン・ブランクーシと交流しながら彫刻に没頭しました。アフリカやオセアニア、中世ヨーロッパなどの民族美術に影響を受けた作品を主に手がけていましたが、資金不足と体力の衰えから断念せざるを得ませんでした。1914年に画商ポール・ギヨームと知り合い、1915年頃から絵画に専念するようになります。
個展と晩年
1917年3月、モディリアーニはアカデミー・コラロッシでジャンヌ・エビュテルヌと出会い同棲を始めました。同じ年の12月に開いた生涯唯一の個展は、裸婦画をめぐる騒動で知られています。1920年、モディリアーニは貧困と結核に苦しみながら35歳で死去しました。ジャンヌはその翌日、身重のまま後を追って命を絶ちました。
読んだらクイズ
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裸婦に集中した晩年モディリアーニの代表作の大半は1916年から1919年に集中して制作されました。ほとんどが油彩の肖像と裸婦で、風景画はわずか4点、静物画は残していません。女性の造形美への関心が、裸体画の特徴として指摘されています。
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よくある疑問
- 『背中を見せて横たわる裸婦』はどこにある?
-
アメリカ・フィラデルフィア近郊のバーンズ・コレクションが所蔵しています。
- なぜ裸婦を多く描いた?
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モディリアーニの絵画作品は肖像と裸婦がほとんどで、女性の造形美への関心が裸体画の特徴として表れているとされています。1916年から1919年に代表作の大半が集中しており、この作品もその時期にあたります。
- 顔の描き方が独特なのはなぜ?
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顔と首を異様に長いプロポーションで描き、瞳を描き込まないことが多いのが特徴です。1909年頃から取り組んだ彫刻の影響が指摘されています。
- 生前は評価されていた?
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当時の評価は低く、作品は売価を大幅に値引かないと売れない状況でした。死後の1926年の回顧展になって新聞が高く評価するようになりました。
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出典・画像について
画像: Wikimedia Commons(Public domain)。元ファイル



