皇女ソフィア

イリヤ・レーピン《皇女ソフィア》1879年
皇女ソフィアGrand Duchess Sofia at the Novodevichy Convent
1879年
油彩、カンヴァス、204.5 × 147.7 cm
トレチャコフ美術館(モスクワ)

この作品のデータ

何がすごいのか

腕を組んでこちらを睨む皇女の背後で、窓の外には処刑された銃兵の死体が影になって見えています。レーピンが描いたのは、修道院に幽閉されたソフィアの部屋の扉を、彼女を修道女にせよと命じられた兵士たちが開けた瞬間です。扉の向こうでは、かつて摂政として国を動かした皇女が、怒りをあらわにして立っていました。

見どころ

睨みつける皇女の顔

唇を真一文字に結び、眉間にしわを寄せ、血走った目を見開いています。自分を支持した兵士たちが処刑されたことへの怒りと苦悩が、この表情に描き込まれています。

暗がりで怯える侍女

左奥の暗がりでは、黒ずくめの服を着た侍女が縮こまっています。手前のテーブルには、開いたままの本、飲みかけのグラス、羽根ペン、燭台が置かれています。

開かない窓の外

右側の窓は、逃げられないように開け閉めできなくされています。格子の向こうに、銃兵隊長の死体のシルエットがぼんやりと浮かんでいます。

摂政になった皇女

ロマノフ朝2代目のツァーリ、アレクセイには、ソフィアのほかにフョードル3世、イヴァン5世、ピョートル1世など多くの子どもがいました。まずフョードルが即位しましたが、病弱で、6年後に20歳で亡くなります。イヴァンには知的障害があったため、ピョートル1世が即位しました。

ソフィアは25歳のとき、銃兵隊(ストレリツィ)に反乱を起こさせます。イヴァン5世をツァーリに立て、ピョートルを名目上の共同統治者とし、自分は摂政として実権を握りました。ピョートルは田舎へ追いやられています。

窓の外に吊るされた兵士

2度のクリミア遠征の失敗などの失政に苛立ったソフィアは、ピョートルを除こうと再び銃兵隊を動かしますが、失敗します。1689年、ソフィアはモスクワのノヴォデヴィチ女子修道院に幽閉され、ピョートルが改めてツァーリになりました。

9年後の1698年に銃兵隊の反乱が起きると、ソフィアを支持した1500人近くの兵士が処刑されました。ソフィアが反乱を指揮した証拠はありませんでした。それでもピョートルは修道院のそばに処刑台を設け、首謀者と見られた3人の兵士の死体を、ソフィアの部屋の窓の外に吊るしています。

長い題名とその後

この絵の正式な題名は「ノヴォデヴィチ修道院に幽閉されて1年後の皇女ソフィア・アレクセーエヴナ、1698年に銃兵隊が処刑され、彼女の使用人が拷問されたとき」です。題名そのものが、描かれた場面の説明になっています。

扉が開けられたあと、ソフィアは強引に剃髪させられ、修道女にされました。大勢の兵士に監視され続けたまま、1704年に亡くなっています。

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よくある疑問

『皇女ソフィア』はどこにある?

モスクワのトレチャコフ美術館に所蔵されています。縦204.5cm、横147.7cmの大きな油彩画です。

皇女ソフィアとは誰?

ロマノフ朝2代目のツァーリ、アレクセイの娘ソフィア・アレクセーエヴナです。1657年に生まれ、25歳のときに摂政として実権を握りました。1689年にノヴォデヴィチ女子修道院に幽閉され、1704年に亡くなっています。

何が描かれている?

1698年の銃兵隊の反乱のあと、ソフィアを修道女にせよと命じられた兵士や修道僧が、彼女の部屋の扉を開けた場面です。腕を組んでテーブルに寄りかかり、こちらを睨むソフィアと、奥で怯える侍女が描かれています。

誰が描いた?

ロシアの画家イリヤ・レーピンが1879年に描きました。歴史画に分類される作品です。

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出典・画像について

画像: Wikimedia Commons(Public domain)。元ファイル

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