
元寇でモンゴル軍と戦った御家人竹崎季長が、自分の戦功を伝えるために作らせた絵巻です。蒙古兵の軽装や軍船、火薬兵器「てつはう」が描かれた貴重な絵画史料として、歴史の教科書によく使われています。季長と向き合う3人の蒙古兵だけ絵の描き方が違い、後世に描き足された可能性も指摘されています。
見どころ
矢面に立つ竹崎季長
肥後国の御家人竹崎季長が、8名の郎党を率いて蒙古軍に斬り込んでいく場面です。季長自身がこの絵巻の制作を指示したと考えられています。
炸裂する「てつはう」
蒙古軍が使用した火薬兵器「てつはう」が描かれています。当時の蒙古軍の軽装兵や軍船とともに、てつはうが描かれた貴重な絵画史料とされています。
描き方の違う3人の蒙古兵
季長と対峙する3人の蒙古兵は、絵巻の他の場面と装備や絵のタッチが明らかに異なります。近世の加筆である可能性が有力視されています。
前巻と後巻に描かれた季長の戦い
前巻では、季長が8名の郎党を率いて文永の役に出陣し、一番駆けの武功に対する恩賞を求めて鎌倉へ赴き、安達泰盛と直談判する様子が描かれています。後巻では、恩賞として得た海東郷の地頭となった季長が、弘安の役に再び出陣する様子が描かれます。末尾には永仁元年(1293年)の日付が記されています。
竹崎家から永青文庫へ
竹崎家の衰退後、絵巻は大矢野家に伝えられました。長い年月を経てばらばらになっていたものが、江戸時代に肥後細川家の学者によって現在の順序に成巻されたとされています。肥後細川家の史料を保存する永青文庫には、江戸時代に作られた写本(白描本・彩色本)も残されています。
史料としての価値
民俗学者の宮本常一は、日本軍が陣鐘や陣太鼓を用いない一方、蒙古軍にはすでに集団戦法が発達していたことや、両軍の弓の違い、蒙古軍が投げ槍を多用したことなどを、この絵巻から読み取れる点として指摘しています。
制作の目的をめぐる説
なぜ季長がこの絵巻を作らせたのかについても、いくつかの説があります。恩を受けながら霜月騒動で一族もろとも滅ぼされた安達泰盛・盛宗父子を鎮魂するためという説、季長の所領となった海東郷の信仰圏にある甲佐神社へ奉納するためという説が従来から出されています。絵や詞に描かれている得宗被官と季長との関係を指摘する説も出されています。
よくある疑問
- 『蒙古襲来絵詞』はどこにある?
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皇居三の丸尚蔵館が所蔵しています。国宝に指定されています。
- 誰が何のために作らせた?
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肥後国の御家人竹崎季長が、元寇での自分の戦いぶりを描かせたものとされています。恩賞を得られなかった不満から鎌倉へ赴き、安達泰盛に直談判して恩賞地と馬を得た経緯も描かれています。
- 全部同じ時代に描かれたの?
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絵巻自体は中世のものと考えられていますが、蒙古兵と日本の騎馬武者の描写の違いから、後世に加筆や改変が加えられたとする説もあります。季長自身の指示による追加という見方も出されています。
- 何が描かれている史料として貴重なの?
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蒙古軍側の軽装兵や軍船、火薬兵器「てつはう」が描かれた絵画史料として知られ、歴史の教科書に掲載されることが多い作品です。日本軍が陣鐘や陣太鼓を使わない一方、蒙古軍は集団戦法を発達させていたことなども絵から読み取れるとされています。
基本データ
作者不詳のほかの作品
出典・画像について
画像: Wikimedia Commons(Public domain)。元ファイル