
秀吉が毛利輝元に贈った陣屋屏風という伝承がありますが、それを裏付ける史料は一切ありません。224.2×453.3cmという屏風としては異例な大きさで、画面には複数の切り詰めた跡があり、元はさらに大きな作品だったとみられています。
見どころ
巻き毛の獅子
闊達な墨線と金泥の隈取りで、渦を巻く獅子のたてがみと尾を大胆に描いています。雄大なスケールの豪快な作品を得意とした永徳の画風がよく表れています。
探幽による鑑定の書き込み
画面右下には、永徳の孫にあたる狩野探幽による『狩野永徳法印筆』という書き込みがあります。落款のない本作の作者を永徳と裏づける資料の一つです。
切り詰められた画面端
画面には複数の切り詰められた部分があり、元はさらに大きな作品だったとみられています。大坂城や聚楽第など、秀吉ゆかりの城郭を飾る障壁画だった可能性も指摘されています。
天下人に仕えた狩野派の棟梁
狩野永徳は狩野松栄の息子で、狩野元信の孫にあたります。狩野派の棟梁として織田信長、豊臣秀吉という天下人に仕え、安土城、聚楽第、大坂城などの障壁画を制作しました。永徳が力を振るったこれらの代表的な仕事は建物とともに滅びてしまったものが多く、真筆とされる現存作品は比較的少ないとされています。
永徳といえば『唐獅子図』のような雄大なスケールの豪快な作品がよく知られていますが、細部を緻密に描写した作品もよくしたと伝えられています。
龍図の制作中に倒れる
天正18年(1590年)9月、永徳は東福寺法堂の天井画の龍図を制作中に病気になり、ほどなく死去しました。享年48(満47歳没)です。死因は、現代風に言えば過労死かともいわれています。東福寺法堂の天井画は、永徳の下絵をもとに弟子の狩野山楽が完成させましたが、現存していません。
よくある疑問
- 『唐獅子図屏風』はどこで見られる?
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宮内庁三の丸尚蔵館(東京)の所蔵です。もとは毛利家に伝わっていましたが、明治期に皇室に献上されました。
- 誰が描いた?
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狩野永徳です。落款はありませんが、画面右下に永徳の孫・狩野探幽による『狩野永徳法印筆』という鑑定の書き込みがあり、永徳の真筆とされています。のちに永徳のひ孫にあたる狩野常信が左隻を補作しました。
- 毛利輝元への贈り物という伝承は本当?
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確証はありません。天正10年(1582年)、秀吉が本能寺の変を聞いて畿内に戻る際、高松城での講和の証として毛利輝元に贈った陣屋屏風という伝承がありますが、それを裏付ける史料は一切ありません。
- なぜこんなに大きいの?
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224.2×453.3cmは、本間屏風としては異例な大きさです。画面には複数の切り詰められた跡があり、元はさらに大きな作品で、大坂城本丸表御殿や聚楽第など秀吉ゆかりの城郭の障壁画だったとする説もあります。
基本データ
- 作者
- 狩野永徳Kanō Eitoku
- 制作年
- 16世紀後半(安土桃山時代、制作年不詳)
- 種別
- 絵画
- 技法・素材
- 紙本金地著色、六曲一双屏風
- 寸法
- 224.2 × 453.3 cm
- 所蔵
- 宮内庁三の丸尚蔵館(東京)
- 展示室
- 日本・近世まで
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出典・画像について
画像: Wikimedia Commons(Public domain)。元ファイル