
この作品のデータ
| 作者 | 狩野永徳 | 同じ作家の作品 2点 |
|---|---|---|
| 制作年 | 1565年(永禄8年) | |
| 時代 | 日本・近世まで | 同じ時代の作品 42点 |
| 様式 | 狩野派 | 同じ様式の作品 2点 |
| 種別 | 絵画 | |
| 技法・素材 | 紙本金地着色、六曲一双屏風 | |
| 所蔵 | 米沢市上杉博物館米沢 | |
| 有名度 | ★★★名画クイズで出題(全作品の解放) |
この屏風には数千人もの人物が描き込まれています。もとは室町幕府の将軍が、上杉謙信への政治的なメッセージとして狩野永徳に発注したものでしたが、完成前に将軍が暗殺され、絵は長く手元に留め置かれました。最終的にこれを謙信へ届けたのは、絵に目を留めた織田信長でした。1988年には永徳の作ではないとする異論も出て学界を二分しています。
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見どころ
祇園会の山鉾
右隻には、京都の夏を彩る祇園会の山鉾が描かれています。洛中洛外図には、四季を通じた風物や行事が数多く描き込まれており、これもその一つです。
右隻の左端の内裏
右隻のいちばん左の扇には、天皇の住まいである内裏が描かれています。この屏風には建物や場所の名前が書き込まれていて、内裏のまわりは特に書き込みが集中しています。
場面を区切る金雲
画面のあちこちにたなびく金色の雲は、離れた場所や違う季節の場面を区切り、つなぐ役目をしています。雲で隠すことで、京の町全体を1つの画面に収めています。
洛中洛外図というジャンル
洛中洛外図は、京都の市街(洛中)と郊外(洛外)の景観や風俗を描いた屏風絵で、戦国時代から江戸時代にかけて数多く制作されました。現存する良質なものは30から40点とされ、うち2点が国宝、5点が重要文化財に指定されています。多くは右隻に京都東方面、左隻に京都西方面を鳥瞰図として描く六曲一双の形式をとります。上杉本は、戦国時代の景観を描いた「初期洛中洛外図」として現存する4点のうちの1点です。
将軍の依頼と信長の贈答
上杉本は、室町幕府13代将軍足利義輝が、上洛して管領に就任するよう促すメッセージを込めて上杉謙信に贈るために狩野永徳へ発注したと考えられています。ところが絵が完成する直前の永禄8年5月、義輝は非業の死を遂げました(永禄の変)。同年9月に完成した絵はそのまま永徳のもとに留め置かれます。天正2年、上洛して信長に接近していた永徳を通じてこの絵の存在を知った信長は、当時同盟を結ぶ必要のあった謙信へ絵を贈りました。
作者をめぐる論争
上杉本が永徳作として広く知られるようになったのは、明治44年の福井利吉郎の講演がきっかけでした。ところが昭和63年、今谷明は描かれた建築や武士の装いから、景観年代を天文16年に限定できると主張し、当時わずか4歳だった永徳が作者であるはずがないと異論を唱えました。これに対し、瀬田勝哉や黒田日出男らの美術史家が落款・筆跡・史料を再検討し、永徳作・信長贈答説を裏づける記述を発見したことで、永徳の作という説が通説となりました。
よくある疑問
- 『上杉本洛中洛外図屏風』はどこにある?
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山形県米沢市の米沢市上杉博物館が所蔵しています。上杉家に代々伝わり、1995年に国宝に指定されました。
- 本当に狩野永徳が描いた?
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1988年に発表された論文で、上杉本の景観が永徳4歳の頃に限定されるとして、永徳作を疑う異論が出されました。しかし落款・筆跡・画風の再検討や新たな史料の発見により、永徳が制作し織田信長が上杉謙信へ贈ったとする説が通説となりました。
- なぜ上杉家に伝わった?
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室町幕府13代将軍足利義輝が、上洛を促すメッセージを込めて上杉謙信へ贈るため永徳に発注しました。しかし完成直前の1565年に義輝が暗殺され、絵は永徳の手元に残りました。その後、上洛した織田信長がこの絵に目をつけ、同盟関係にあった謙信へ贈ったとされています。
- 何が描かれている?
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右隻に京都東方面、左隻に京都西方面を鳥瞰図で描き、御所や武家屋敷、寺社、祭礼などの名所風俗が数千人の人物とともに描き込まれています。季節ごとの行事も配され、四季絵としての性格もあわせ持っています。
狩野永徳のほかの作品
出典・画像について
画像: Wikimedia Commons(Public domain)。元ファイル
