松林図屏風

長谷川等伯《松林図屏風》1593〜1595年頃(推定)
長谷川等伯Hasegawa Tōhaku
松林図屏風Pine Trees
1593〜1595年頃(推定)
紙本墨画、六曲一双屏風、各 156.8 × 356.0 cm(本紙のみ)
東京国立博物館(東京)
何がすごいのか

落款も年記もなく、いつ描かれたのかもわかっていません。息子・久蔵を26歳で亡くした翌年の作という説があり、依頼を受けてではなく等伯自身のために描いたともいわれています。世に知られるようになったのは、意外にも1932年と近年のことです。

見どころ

藁筆で描いた荒々しい松

等伯は藁筆や、洗わずに固くなった筆を使ったともいわれています。粗放で力強い筆致が、霧にかすむ松の幹や枝先に生かされています。

折り目に合わせた奥行き

屏風を実際に立てて見ると、奥へ折れる部分では松も奥を向き、手前で折れる部分では松が濃く、奥ほど淡く描かれています。屏風として鑑賞されることを前提にした工夫です。

遠くにかすむ雪山

雪、夜、雨、月、霧が描かれた『瀟湘八景』のような画を、等伯は自ら『静かなる絵』と呼び理想としました。霧にかすむ松林と遠くの雪山を描いた本作は、その具現化と考えられています。

世に知られたのは意外に最近

本作が世に知られるようになったのは比較的新しく、1932年(昭和7年)のことです。1934年(昭和9年)に旧国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定され、1952年(昭和27年)に文化財保護法に基づく国宝に指定されました。

息子を亡くした翌年の絵

文禄元年(1592年)、等伯は祥雲寺障壁画(現在の智積院襖絵)を完成させました。その翌年、息子の久蔵が26歳で亡くなっています。松林図屏風は、その悲しみを背負った等伯が、人からの依頼ではなく自分自身のために描いたともいわれています。

牧谿への私淑と、能登の記憶

樹木の描き方には、等伯が私淑した牧谿の影響が見られますが、単なる模倣ではなく等伯自身の画風に取り込まれています。等伯が生まれ育った能登の海浜には、今もこの絵のような松林が広がっており、故郷の風景の記憶と牧谿らの技法が結びついて生まれた作品だと考えられています。

よくある疑問

『松林図屏風』はどこで見られる?

東京国立博物館(東京)の所蔵で、1952年11月22日付で国宝に指定されました(指定番号 絵画51番)。

誰が描いた?

長谷川等伯です。落款や年記はなく制作年代ははっきりしていませんが、作風の変遷から文禄2〜4年(1593〜95年)頃、等伯50歳代の作と推定されています。

なぜ『静かなる絵』と呼ばれる?

等伯自身が理想とした画を『静かなる絵』と呼んだことに由来します。雪、夜、雨、月、霧を描いた『瀟湘八景』のような絵を指し、霧にかすむ松林と遠くの雪山を描いた本作はその具現化と考えられています。

屏風絵ではなく下絵だったという説は本当?

確定していません。紙の継ぎ方が通常と異なる点や、下絵では使わないはずの上質な墨が使われている点など、下絵説と完成作説の両方を支持する証拠があり、今も議論が続いています。1997年に発見された酷似する作品『月夜松林図屏風』は、等伯にごく近い絵師が本作を模倣したものと推定されています。

基本データ

作者
長谷川等伯Hasegawa Tōhaku
制作年
1593〜1595年頃(推定)
種別
絵画
技法・素材
紙本墨画、六曲一双屏風
寸法
各 156.8 × 356.0 cm(本紙のみ)
様式
長谷川派
所蔵
東京国立博物館(東京)

出典・画像について

画像: Wikimedia Commons(Public domain)。元ファイル

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