
発掘されたとき、ラオコーンの右腕は失われていました。教皇は彫刻家たちに腕の形を競わせ、伸ばした腕で復元しましたが、1906年に見つかった本物の腕の破片は曲がっていました。この像はナポレオンに奪われパリへ運ばれたこともあります。
見どころ
苦悶の表情
トロイアの神官ラオコーンの顔です。海蛇に襲われる激しい苦痛が、彫刻の悲劇性の中心に据えられています。
巻き付く海蛇
女神アテナが遣わした海蛇が、ラオコーンとその2人の息子に巻き付いています。ラオコーンはこの蛇に襲われ、息子たちとともに命を落としました。
1906年に見つかった腕
発掘時に失われていたラオコーンの右腕は、当初は大きく伸びた形で復元されました。1906年に見つかった本物の腕の破片は曲がった形をしており、1950年代にこの形で再び組み直されました。
トロイアの神官の最期
ラオコーンはトロイアの神官で、トロイの木馬がギリシア軍の計略であることを暴くために槍を投げつけました。しかし女神アテナが遣わした海蛇に襲われ、2人の息子とともに殺されてしまいます。トロイア人たちはこの死をきっかけに木馬を聖なるものと信じ込みました。この物語は古代ローマの詩人ウェルギリウスの『アエネーイス』にも描かれていますが、彫像自体はそれ以前に制作されたと考えられています。古代ローマの博物家プリニウスは、製作者をロドス島出身の彫刻家アゲサンドロス、アテノドロス、ポリュドロスの3人としています。
失われた腕をめぐる論争
1506年、ローマ皇帝ネロの大宮殿ドムス・アウレアの近くから彫像が発掘されたとき、ラオコーンの右腕と息子たちの腕は失われていました。教皇ユリウス2世は彫刻家たちに失われた腕の形を競わせるコンテストを企画し、ラファエロに審査させています。結果、大きく伸ばされた腕の形が選ばれました。1906年、考古学者ルートヴィヒ・ポラックが曲がった右腕の大理石の破片を発見しましたが、バチカン美術館は半世紀近くこれを放置していました。1950年代になってようやくこの腕が本物だと鑑定され、彫像はいったん解体されたうえで、曲がった腕の状態に組み直されています。
ルネサンスからナポレオンまで
発掘に立ち会ったミケランジェロはこの彫像から大きな影響を受け、後期の『反抗する奴隷』や『瀕死の奴隷』にその筋肉表現が表れています。2005年には、この彫像自体がミケランジェロによる贋作ではないかという主張も出ましたが、美術史家リチャード・ブリリアントは「あらゆる意味で馬鹿げている」と退けています。1799年にはナポレオン・ボナパルトによってパリへ運ばれ、ナポレオン没落後の1816年にバチカンへ返還されました。ドイツの思想家レッシングはこの彫像をめぐる著書『ラオコーン』を著し、視覚芸術と言語芸術の違いを論じる「ラオコーン論争」の火付け役となっています。
よくある疑問
- 『ラオコーン像』はどこにある?
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バチカン美術館の一部、ピオ・クレメンティーノ美術館が所蔵しています。1506年の発掘後、教皇ユリウス2世が入手し、現在のバチカン美術館にあたる庭園に置いたのが始まりです。
- これはオリジナルの彫像?それとも模刻?
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はっきりとはわかっていません。紀元前42年から前20年ごろにロドス島出身の3人の彫刻家が制作したという説が有力ですが、紀元前200年ごろペルガモン王国で作られたブロンズ像が本来のオリジナルで、この大理石像はその模倣だとする意見もあります。
- なぜ右腕の形が違う?
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発掘時、ラオコーンの右腕と息子たちの腕は失われていました。教皇が企画したコンテストの結果、伸ばした腕の形で修復されましたが、1906年に見つかった本物の腕の破片は曲がっていることがわかり、1950年代にこの形へ組み直されています。
- ナポレオンに奪われたことがある?
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はい。1799年、イタリア侵攻後のナポレオン・ボナパルトによってパリへ運ばれ、当時「ナポレオン美術館」と呼ばれた現在のルーブル美術館に置かれました。ナポレオン没落後の1816年にバチカンへ返還されています。
基本データ
- 制作年
- 紀元前42〜前20年頃
- 種別
- 彫刻
- 技法・素材
- 大理石
- 様式
- Hellenistic sculpture
- 所蔵
- ピオ・クレメンティーノ美術館(バチカン美術館)
- 展示室
- 古代・中世
作者不詳(古代ギリシャ)のほかの作品
出典・画像について
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